読書と文学、文学の今後について。

まずは形から

先日、本を読んでいて思いましたが、最近の老若男女の方々は、どれだけ読書するのでしょうか。
前から疑問ではあったのですが、これについて、少し考えてみたいと思います。
以下は、突拍子のない内容であり、長文となります。
ご容赦ください。

まずは、何のための読書か、読書の価値は何なのかについてですが、他にもあるかもしれませんが、主に以下の3つでしょうか。

  1. 鑑賞
    1. エンターテイメント性の鑑賞
    2. 文学性の鑑賞
  2. 自己啓発
  3. 資格等のための学習

上記のために純粋に紙媒体の本を読む人は、減ってきていると思います。
これの一因は、以下のような上記目的を目指すための手段が他にもあるからと思います。
形態を、以下のようなマトリックスで、比較的メジャーな手段のみで整理します。
下表は、行が知覚の形態の違いを、列が物理的な形態の違いを示しています。

  紙、電子書籍 テレビ ゲーム ネット
文学 ※2 ※3
マンガ ※2 ※3
動画 番組 ※2 ※3
操作※1 ※2 ※3
  • ※1
    文字、絵、動画は、利用者が享受内容を選択いた以降は享受される内容が変化しない、もしくは仮に利用者側の行動により、享受内容が変化したとしても、その変化自体は意図された享受内容ではない。
    これに対し、操作は、利用者の行動およびこれに伴う享受内容の変化自体が、享受内容として意図されたものであることとして、ここでは示している。
    例えば、どのテレビ番組を見る際、どのテレビ番組を見るか、画面を見て、リモコンで選択するという行動が発生するが、この行動自体は、面白くもないし、役にも立たないのが一般的だが、テレビゲームで、攻撃を仕掛けるか、防御をするかを思案し、選択する行動は、そのテレビゲームの面白みとして意図されたものである、といった具合である。
  • ※2:
    テレビゲーム、携帯ゲーム機のゲーム、PC・スマホのゲームなどでは、以下のような各種ゲームが存在するが、利用者へのアプローチは自由度が高く、単一の要素ではなく、様々な複合的な方法で、利用者にアプローチが可能である。
    いくつか特徴的なゲームのジャンルを以下に示すが、全ゲームが何かしらのジャンルに容易に区切られるものではなく、利用者を楽しませるように複雑に巧みに制作されているものもある。

    • サウンドノベルゲーム
      文字が主体のゲーム。
      本媒体の小説と似ているが、ゲーム中に絵、動画、音楽、効果音などがあることと、利用者がゲーム中の主人公の行動を選択できるなどの小説との差異がある。
    • アクションゲーム
      リアルタイムに環境が変化する中で、リアルタイムにゲーム中の主人公などを操作することにより、臨場感等を楽しむことができるゲーム。
    • RPG
      長時間、操作することで、ゲーム中の主人公などを成長させることができ、成長の達成感などを味わうことのできるゲーム。
  • ※3
    ネットでは、記事、ネット番組、マンガ、動画や、ゲームなど、様々なコンテンツがあり、さらに利用者同士が相互にコミュニケーションを取れるというSNSという新しい要素がある。
    表中のゲームにおいても、同様の要素が入っているものもあるが、ここでは、当要素が強弱によって、ゲームかネットかで分けるものとする。

最初に1~3で記載した、鑑賞、自己啓発、資格等のための学習については、表中の「本」に該当するものとして記載していますが、本では実現が難しい要素(※2中の3つの例の要素、※3中の相互コミュニケーション)もあることになります。
一時代前では、本しかありませんでしたら、これと比較した場合、価値の幅は広がったという良い要素があります。

ただ、私が気にしているのは、「他の価値が生まれ、他のニーズが生まれた分、上記1.2の文学性の鑑賞を享受する人が少なくなったのではないか」ということです。
事実であるとした場合、悲しくもありますが、今後の人類の発展が怖くもあります。
懐古主義的なことは言いたくはありませんが、過去の映画や芸能内容などに触れる機会があると、今より30年程前は、恐らくまだ文学性はある程度、大衆化されていたと思いますが、今は「文学性は限られた一部の人間のみが楽しむものとなってしまったのではないか」と感じられます。

本の方がよいと言う訳ではありません。
「本にしろ、映画にしろ、テレビにしろ、ネットのコンテンツにしろ、もっと多くの人が、文学性により触れてほしいな」と思っています。
多様性はあった方がよいと思いますし、全ての人がそうである必要はないと思います。
「文学には興味ない」という人も多くいていいと思いますが、「ある程度の割合の人が文学性的な感覚を持っていないと、世の中や他者に対する、個人や少数の人々の影響力が強くなっていく情勢では、世の中は、取り返しのつかない方向へ進んでしまうのではないか」と感じるところがあります。

将来について、考えてみましょう。

しかし、世の中とは面白いもので、誤解を恐れずに言った場合、文学性というものが明確になってきた歴史は、たかだか200年程度と個人的には思っていますし、テレビ、ゲーム、ましてネット、SNSなどが普及したのは、50年~10年程前でしかなく、世代もさほど回転している訳でもありません。

展開は急激であるにせよ、現在はある意味で過渡期でしかありません。

上記2の自己啓発についての享受について、見てみましょう。

私は、自己啓発に関する情報を有効に得ようと思ったとき、ネットで概要の情報を得て、本を購入して詳細を得るようにしています。
なお、本はかさばるので、電子書籍でもいいとは思いますが、目の疲れや読みやすさが本の方が好みです。
最終的な情報は、お金を払って購入した方が、得られる情報の有益性と取得効率は、高い可能性が比較的高い(残念ながら、全然100%ではないですが)です。
これは、出版社などのお金も絡むこととなり、様々な情報の有益性、評価に対する(歴史のある基本的なシステムでもある)関門が存在するからです。
現在、インターネットのみで情報を得ようとすると、SEO合戦による、質より量の情報の受け渡しの嵐が邪魔になり、なかなか欲しい情報が得られないことが多く発生します。
また、細かい情報になると、情報の信頼性を判断できない場合も多いです。

しかしながら、近い将来、情報の直接購入を動機としない、インターネットでの有効な情報のやり取りが発生するよう改善されていくようになっていきます。
これは、全く新しい需要と供給のシステムになると思います。
話しを広げ過ぎかもしれませんが、これほどのあらゆるものの転換が行われる中ですので、文学性においても、新しい享受や、文学性に変わる新しい価値の創造もあるかもしれません。

未知の可能性がどんどん実現していく現在、明るい展望を望み、実現していきたいものです。

まずは形から

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