森や山や谷…神秘の先には何があるのか?

何か用かな?

先日、かなり久々となりすが、旅行に行ってきました。
その際に、あまり味わったことのない感覚がありましたので、今日はその辺を少し書こうかと思います。

旅行は1泊2日の温泉旅行になります。
山奥に行きました。
前日から体調不良を心配していたのですが、体調は予想よりかは良かったです。
2日目にお腹の調子が悪くなりましたが、これによる予定変更もしなくて済みました。
よかったです。
天気は1日目は生憎の雨でしたが、どしゃ降りではなく、風も弱かったため、傘があれば、なんとかなる程度でした。
2日目は晴れました。
温泉は露天風呂もあり、外の駐車場からは丸見えでしたが、そこまでの混雑もなく、快適に過ごすことができました。
お客の半分以上は外人さんでした。
インバウンドです。

なので、以前の日記で予告していたような子グマの絵は描かなくて済みました。

移動はバス移動が比較的多かったのですが、山道を車で進む経験が、ここ最近はほとんどなかったため、これがとても新鮮で、今回の旅で一番楽しかったのは、バス移動だったかもしれません。

「よくも先人はこんなところに道を作ったものだ、すごいな、偉いな、感謝しなくちゃな」と思わせる、うねうねと山と谷を縫うようにして続く道路を進んでいきます。

紅葉にはまだ少し早かったのですが、見上げたり、遠くに見えたりする山々には、様々な木々がひしめいていて、
「あれは広葉樹かな、あれは針葉樹かな、針葉樹であれば人工林かな、それとも天然なのかな」
などと、乏しい知識を武器に、私の頭の中のあれやこれやが騒ぎたがって、そして頭の中は騒いでいました。

山の所々は、大雨で崩れたのであろう岩肌が見えていて、バスの車窓から通り過ぎるまで、私はそこを一生懸命に見つめていました。
近くに流木を探そうとすると、時々それらしき横たわる木を見つけられます。

谷を流れる川には、一部湯気が立っているところがあります。
きっと、温泉なのでしょう。
でも、近くに宿はないため、そこは自然による誰の為でもない自然なのです。

ふと、私の中に、「自分は、自然に何を求めているのか」という疑問が浮かびました。

ここから下は、自然を愛する方、自然に畏敬の念を抱いている方、綺麗好きな方は、見ない方がよいかもしれません。
念のため、ご忠告させていただきます。

帰りのバス移動の最中だったのですが、ふと、昔思ったことを思ってみました。

「カビやコケって、拡大すると森や林みたいだな。」

一度そういう風に見てしますと、そういうようにしか見えなくなってしまいました。
山の木々も、凹凸のあるところに発生したカビやコケを拡大したものに見えてきます。
カビやコケが密集したところをえぐられれば、そこには地が覗かせます。

私は焦ってしまって、「そんなことはないはずだ」と、そう思うのです。
なぜそんな風に、私は焦るのか。

このままでは、虚しく、心寂しく、少年期に子が「親を超えてしまった」と感じてしまうところの恐怖も、感じてしまいそうになるのです。

つまり、私は
「自然に偉大さを求めていて、畏怖し、崇拝したく、威厳を以って支配してほしいと、そう思っているのだ」
と、私は改めて感じました。

山の木々は、カビやコケの相似なだけと、私は思いたくありません。
本能的に認めたくない拒否反応があります。
相似なだけなのか、そうでないのか、拡大なのか、偉大なのか、答えはどちらなのか。
もし、自然は偉大だとするならば、なぜ私は、カビやコケと同じという感覚から逃れることができないのか。
そう考えていたら、
「私が、自然を直に感じる機会が少ないから、一度、山を自らの手で開拓したり、巨大な熊に遭遇したりすれば、このようなイヤな感覚もなくなっていくのだろうか」
と、そう思いました。
正直、しっくりは来ていませんが、間違いだとも、まだ思っていません。

ただ、最後に、こんな思いもしました。

曇って、遠くから見ると輪郭のはっきりした巨大な構造物に見えますが、近付くと輪郭も曖昧な霧雨みないな感じになっているだけ。
飛行機や登山で、経験された方もいると思います。

今回の山移動でも、近くで見ると山には木々が生えていて、様々な色の緑色がひしめいていますが、遠くに見える山は、輪郭だけが姿を見せていて、色は青に見えます。
この姿には、今回の帰り道でも雄大さを感じました。
日本古来から続く富士山信仰が、富士山の麓だけではなく、富士山の見える富士山から離れた箇所にも分布していたことや、神社のご神体を山そのものとしようとした気持ちも、「そうかも」と思わせるものがありました。

1日目に天気を悪くさせた雲の残りたちが、遠くの青い山の麓に漂っていて、私たち人間が近づいてはいけない、近づけないものが、そこにはあるように感じられるのです。

でも、そこには近付けてしまって、そして近付いてみると、木や水滴があるだけ。
このとき、私は、「知りたいのであれば当然、近付いてみるんだ」と思っていました。
それを知りたいと思った場合は、近くに行きたくなります。
そして実際に近付いて、見て、知って、なぜかがっかりするのです。
では、自然に近付いて、何を知りたがって、何を期待しているのでしょうか。
古典哲学では、あれやこれや名前が付いていると思いますが、漠然といえば、「私たちが感じた偉大で重要そうなものの正体を知りたい」と思っているのだと思います。

正体とは何か、正体の定義は?
という答えは、正体が分かっていない状態で決めてしまうと、本質を失ってしまうと思います。
だから、結果的に正体を見つけられないというジレンマもあります。

「知りたい」、「感じたい」と思う気持ちを素朴にそのままに、少しでもそれに近付きたいのです。

では、「そこにより近いのはどこなのか」ですが、そこは、山の構成がよく見える山の中や近くではなく、山が青く見えるほど遠い場所なのではないかと思います。
「正体を知りたい」と感じたときに、本能的に「物理的に近付きたい」と思っていたのが、ある種の思い込みなのかもしれないと、そう思ったときは、なんとなく合点がいきました。

自然の正体、偉大なものの正体は、どのように観測してよいのか、はっきりしていないのです。

だから、「私がそんなに慌てる必要なないのかもしれない」と、そう思った次第です。

以上、長くなりました。

場所にもよりますが、そろそろ紅葉の季節です。
みなさんが、「ああ、いいな」と思えるような季節の移ろいを感じられることを願っています。

何か用かな?

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